民族國家
「お前の念願は何か?」、神がわたしにもし尋ねられるなら、わたしはためらうことなく、
「私の念願は、大韓の独立です」
と答えることだろう。「それでは、そのつぎに何を願うか?」と尋ねられるならば、わたしはまた、
「わが国の独立です」
と答えるだろう。「そのまたつぎの願いは何か?」という三番目の質問があっても、わたしは、いっそう声を高くして、
「私の念願は、わが国の完全な自主独立です」
と答えることだろう。
同胞の皆さん!私 キムグ?九 の念願は、これ以外にはない。わたしは、過去七十年の生涯を、独立なき民として、七十年の生涯を悲哀と恥辱と苦悩の中に生きてきたわたしにとっては、世の中でいちばんすばらしいことは、完全に自主独立した国の民として生き、そして死ぬことである。わたしはかつて、わが独立政府の門番になることを志願したことがある。それは、「わが国が独立国になりさえすれば、わたしはその国のもっともみすぼらしい者になっても本望だ」という気持ちからのことだ。「なぜそんなことをいうのか?」と問われるなら、 「独立したわが国においての貧困こそ、他人の下に立った豊かさよりも、喜ばしくも光栄で希望に満ちたものだからだ」 と答えよう。
昔、日本にはけんした バクチェサン朴堤上 (五世紀初めの新羅の忠臣、日本で人質になった送られていた王 「たとえ、 キェリム鷄林 (朝鮮)の犬、豚になろうとも、自分は倭王の臣下としての豊かといった伝えられるが、それがかれの真実であることを、わたしは知っている。朴堤上は、倭王が高い地位やたくさんの財貨を与えようというのを退けて、甘んじて死を受けた。それは、 「むしろ、わが国の鬼神となって国を守らんがため」 だったのだ。
近來、わが同胞の中に、わが国をどこか大きな燐国の属邦にしてしまうことを、その念願とする者がいるという。わたしは、そんなことを事実と信じたくはないが、もし万一ほんとうにそんな者がいるとすれば、その者はおのれの正気を失った気狂いとみるほかない。
わたしは、孔子、釈迦、イエスの道を学んだことがあり、かれらを聖人としてすうはいしはする。だが、たとえかりに、かれらが力を合わせて建設した天国、極樂があったとしても、それがわが民族が建設した国でないかぎり、わたしは、わが民族を導いてその国の中に入って行きはしないだろう。なぜならば、血と歴史を同じくする民族というものは、それ自体完全な存在であり、自分のからだを他人のからだと取り替えることができないのと同様に、一つの民族が他の民族になりかわることは、できないことだからである。それは、兄弟といえども一つ家に暮すのはむずかしいということと、まったく同じなのである。二者以上がいっしょにくらすならば、一方は高く他方は低くなり、一方は上に立って命令し、他方は下にあって服従するという関係が、根本問題となるのだ。
この点について、一部のいわゆる左翼の連中は、血統の祖国を否定して、いわゆる思想の祖国を云々し、血を分けた同胞を無視して、いわゆる思想の トンム同志 とプロレタリアートの国際的階級を主張し、民族主義などというこのようにして、いかなる思想もすべて移り行き、信仰も変わって行く。しかし、血を分かち合った民族のみは、永遠に盛衰興亡の運命をともにする因縁によって結ばれた一体として、この地上に存在するのである。
世界の人類が、おれの物、おまえの物という区別もない一家となって暮すことは、よいことであり、人類の望みうる最高であり、最終的に目ざす希望であり、理想である。しかし、これは遠い遠い将來にこそ望むべきことであり、現実ではない。四海同胞が共有する偉大で美しい目標に向かって、人類が向上、前進の努力をすることは、すばらしいことであり、またなさねばならぬことでもあるが、それも、現実を離れては成らないことなのだ。現実の中での真理は、各民族がそれぞれ最善の国家を形成し、最善の文化を生み育て、他の民族と相互に有無相通じ、助け合うことにある。これが、わたしが信じている民主主義にほかならない。これが、人類の現段階においての、もっとも確実な真理なのである。
したがって、わが民族としてなすべき最大の任務は何かといえば、第一には、他人のかんしょうも受けなければ他人に依存もしない、完全な自主独立の国家を建てることなのである。それは、これなくしては、たんにわが民族の生活を保障することができないだけではなく、わが民族の精神力を自主に発揮して輝かしい文化をうち立てることもできないからである。このような完全に自主独立の国家がうち建てられたあかつきに、つぎになすべき任務は、この地球上の人類が真の平和と幸福を享有することができるような思想を創り、それをまずわが国において実現することである。
わたしは、こんにちの人類の文化が不完全なものであることを知っている。どの国にも、内には政治上、経済上、社会上の不平等、不合理があり、また外には、国際的な、国と国、民族と民族間のあらそい、あつれき、侵略、そしてその侵略に対する報復があって、大小の戦争の絶えることがなく、多くの生命と財物を犠牲にしながらよい結果を生むことがなく、人心の不安と道徳の墜落はますます深まっているのだ。このような状態では、戦争の絶える日はなく、人類は、ついには滅亡してしまうことだろう。したがって、人類世界には、新たな生活原理の発見と実践が必要となってきているのだ。そしてこれこそが、わが民族に課せられた天職であると信ずる。
だからこそ、わが民族の独立は、けっしてたんに三千里、三千万だけにかかわることではなく、真に世界全体の運命にかかわることなのである。したがって、わが国の独立のために働くことは、とりもなおさず、人類のために働くことなのである。
もし万一、われわれこんにちの状況がみじめだというので、みずからを卑下する心を生じ、われわれが建設する国家がそんな偉大な事業をなしうることを疑うならば、それは自己を侮辱することである。わが民族の過去の歴史は、けっして輝かしくないものではないが、それはまだ序曲にすぎないのだ。われわれが、主演俳優として世界歴史の舞台に立つのは、こんにち以後のことなのである。三千万のわが民族には古代のギリシャ、ローマ民族がなしとげたような事業はなしえないと考えることが、どうしてできようか?
わたしの願うわが民族の事業とは、けっして、世界を武力で征服したり、経済的に支配したりしようとすることではない。そうではなくて、ひたすらに、愛の文化、平和の文化によって、われわれ自身がすばらしい生活をし、人類全体が仲よく樂しく暮せるようにする事業をなそうというのである。
なるほど、いかなる民族も、いまだかつてそんな事業を成し遂げたものはない。だからといって、それは空想であるなどというのは止めよ! たとえ、かつてだれもやったことのないことであっても、それをわれわれがやろうではないかといっているのだ。この偉大な事業こそは、天がわれわれのために残しておいたものである。そのことを悟るとき、はじめて、わが民族が、おのれの行くべき道を見出し、おのれの任務を知ったことになるのである。わたしは、わが国の青年男女が、みな一人残らず、過去の狭くてちっぽけな考えを捨て、わが民族の偉大な使命に目を開き、みずからの心を磨き、みずからの力を養うことをもって、自己の喜びとするようになってほしいと望む。若い人たちが、一人残らずこのような精神を抱き、この方向に力を注ぐならば、三十年たたぬうちにもわが民族は、達成して待たれるようになる。わたしは、このことを確信するものである。