民族の偉大な指導者の白凡金九(1876~1949)
Kim Koo was born in 1876 in Baegun-dong, Haeju, Hwanghae-do 白凡金九先生は、一八七六年黄海道海州に生まれた。幼い時に書堂(寺子屋)で学び、一八九四年東学農民軍の先鋒大将となって海州城を攻撃した。東学農民運動が失敗に終ってしまったことになり、義兵抗争に参加した。一八九六年鴟河浦で日本の浪人が明成皇后を殺害したのに対してかだきを討つためのことだといい、日本の陸軍中尉の土田譲亮を殺して投獄された。金九先生は牢獄の中で新書籍を読み、開化思想を持つようになった。脱獄した上で一時僧侶生活をしたが、一八九九年僧侶生活をやめて黄海道各地に学校を設立するなど新教育運動を展開した。一九○七年には国権回復運動をするため秘密団体の新民会に加入して黄海道総監として活動する中、一九一一年に検挙されて収監された。一九一五年に出獄した後、農民啓蒙活動を展開したことになった。
一九一九年三一運動が起た後、金九先生は中国の上海に亡命し、大韓民国臨時政府警務局長?内務総長?国務領などを歴任し、困難な状況でも臨時政府を守り、活性化させることに心血を注いた。一九三一年韓人愛国団を組織し、一九三二年李奉昌と尹奉吉の義挙を起こして内外に大きな影響を及ぼし、独立運動に大きな活力を与えた。
一九四○年重慶に定着した金九先生は臨時政府の主席として韓国光復軍を組織し、軍事活動を展開しながら抗日運動の最先鋒の指導者として祖国の独立のために闘った。
一九四五年解放された祖国に帰還した金九先生は、米国とソ連による韓国での信託統治の実施について反対した一方、一九四八年には韓半島の南側だけの単独総選挙にも反対し、南北韓の統一政府を樹立することに全力をつくした。しかし一九四九年六月二十六日、統一運動の反対者によって暗殺された。